故郷の風景
---------------------------------------------------------------------------------
田んぼに植えた稲が黄金色に色づき、そろそろ収穫の時期を迎えるという秋の日の午後。お互いバランス感覚が衰えているというのに、夫は何故か自分の漕ぐ自転車の荷台に私を乗せたがった。昼ご飯を食べ終えるまでは出かける素振りなどみせなかったのに、洗い物を済ませてお茶を飲む私の手を引いて玄関に待たせると、自分は駐車場から錆の出ている自転車を引っ張り出してきた。そしてこの年になって二人乗りだなんて恥かしいし、危険だからと拒否する私を半ば無理やり荷台に乗せて、出かけてくると娘夫婦に声をかけると力いっぱい自転車を漕ぎ出した。
出だし大きく揺れた自転車から落ちそうになって、私は夫の背に掴まった。玄関を振り返ると、突然の夫の行動に対して娘夫婦が揃って口をあんぐり開けながら私達を見送っていた。あまりに強引な夫に、私はその背に掴まりながら何度も文句を言ったけれど、普段から無口な夫の口はこの時、いつも以上に貝になっていた。私は飛び降りるのも危険だと諦めて、荷台に横座りになってゆっくり流れる景色を見ることにした。
夫の目的は分からない。ただ歩道から車道へ、車道から歩道へ走り、その度に夫の漕ぐ自転車はぐらぐらと揺れた。田舎の県道を二台の車が窮屈そうにすれ違い、私達はその脇の歩道を自転車で余裕ありげにふらふらと通り過ぎる。
とても良く晴れた日だった。
羊の形をした雲がひとつ、ふたつ浮かぶだけで、冬に向けて少し柔らかくなった太陽は私達を照らし、昼間の月も浮かんで見えた。夫は何も言わずに、ただ無心に自転車を漕いでいた。こっそり覗き込むと、額には汗が滲んでいる。お互い実家は農家ではなかったのに、高校時代に農業に興味を持って大学へ進んで農業を学んだ。大学で出会った時から、話すよりは土いじりをしている方が好きだという男だった。ただ土とそこで育つものに対しては凄く繊細で、魅力的な顔をして見せた。その分女性に対してはとても不器用だった。そんな馬鹿な男に惚れて、二人で片田舎に居を構え、学んだことを生かしながら農業で生計を立てた私も馬鹿な女だった。馬鹿者同士うまくやって、子どもは三人産まれた。今同居している長女夫婦と、長男は花屋になり、今は他県で暮らしている。次男はようやく大学を出て、新しく研究所で働いている。長女夫婦には息子も生まれ、その孫も今はもう小学生だ。
いつの間にか六十を過ぎていた。私の頭には白髪が増え、夫の頭はすっかり禿げ上がってしまった。私はさらに最近胸が痛むようになっていて、先日夫に運転してもらい病院に行ったばかりだった。明日にはまた病院へ来るように医師から言われている。
夫は十字路で左に曲がると、すぐにまた脇道に入った。そこからは緩やかな上り坂で、夫はさらに前傾姿勢になると自転車を左右に揺らしながら坂道を上って行った。緩やかとはいえ、その分長い坂だった。小山のような丘の上には赤い鳥居が見える。この土地に移り住んでから、近くだというのに一度も上ったことがなかった。首にまで汗を流して、顔を真っ赤にして上る夫に、私は自転車を降りて後ろから押そうか、と言った。しかし夫は首を横に振る。そして強い口調で言った。
「いいから、お前は座っていろ」
左右に揺れる自転車からいつ落ちるか分からないから怖い、と訴えても、夫は私が自転車から降りることをよしとしなかった。自転車はすでに歩いた方が早いのではないかというくらいの速度になって、左右の揺れも激しくなっていた。しかし夫は懸命に坂を上り切り、鳥居の前でようやく自転車を降りた。何故そこまで懸命になるのか分からない私は、無理やり連れてこられたこともあってすっかり機嫌を損ねていた。丘の上には暗い社が木に囲まれて建っているだけで、そこは他に何もない、どちらかと言うとあまり立ち寄りたくない陰気な場所だった。
しかし夫が女性に対して不器用であるということは今でも変わらず、夫は私の機嫌が悪くなっていることにも全く気付いていないようだった。どこまでも強引に夫は私の手を引くと、鳥居を右手にして丘の端まで私を連れて行った。いつの間にか陽はオレンジ色を強くして、空も青から黄色に変わっていた。
「見ろ」
夫は丘の先を指差した。私は夫の額に、頬に、首筋に浮かぶ玉のような汗を見て、そしてようやく夫の指差した方を見た。
そこには黄金の海が広がっていた。
稲穂がオレンジ色の陽を反射して輝いている。そして、私と夫の頭を風が撫でると、稲穂もまた風に撫でられて揺れた。黄金の稲穂の波打つ姿、そして私の耳に届いたのはまさに潮騒だった。私の故郷は海辺の漁村で、私は朝も昼も、夕も夜もこの音を聞いて育った。夫と内陸のこの土地に住み、農業を営むようになってから海へ出かけることもなくなっていた。潮騒さえ忘れてしまう子育ての日々が続き、両親も死んで故郷の風景はすっかり忘れたと思っていたのに。
「……海の音ね」
そして幻の香りがする。磯の香り。風も心なしか塩を含んでいて、私は唇を舐めた。少しだけしょっぱい。こんなにも近くに、故郷を感じられるものがあったなんて、私は知らなかった。夫はこれを見せるために私を連れて来てくれたのだ。夫は、ずっと私の中にあった故郷を理解していた。
私達は時を忘れて、やがてその黄金が夕焼けの色に染まるまでずっとそこに佇んでいた。やがて真っ赤な夕日が目の前に沈みかける。夫は静かに私の手をとった。
「……これからも、二人で頑張ろうな……」
掠れた声で、夫がそう呟いた。何故その言葉を今言わなければならなかったのか、夫の意図を深く考えずに私は黙ってそれに頷いた。何か判然としない予感が胸にあったけれど、今は黙って頷くことが必要な気がしたのだ。私は硬い夫の手を握り返した。
帰り道は夫が自転車を押して、私はその隣を歩いて家まで帰った。その日は夜も、まどろみの中で私は故郷の波に揺られ、潮騒を感じていられた。
翌日、病院へ私を連れて行った夫は、医師と共に私が癌であることを告知した。